
『殺人の棋譜』というタイトルを見たとき、将棋盤の上に仕掛けられた暗号や、棋譜そのものが事件の謎につながっていくような作品を想像する人もいるかもしれません。
ところが、実際に読み進めていくと少し印象が違います。
本作で強く感じるのは、将棋の難しさよりも「こんな状況で対局を続けなければならないのか」という息苦しいほどの緊張感です。
将棋界の大一番を迎えている最中に、愛する娘が誘拐される。
盤上では一手のミスも許されない。
しかし、頭から離れないのは娘の安否です。
この二つが同時に進んでいくため、かなり古い作品でありながら、思っていた以上に先が気になりました。
一方で、現在のミステリーを読み慣れていると、
「そこはもう少し詳しく調べないのだろうか」
「少し強引では?」
と感じるところもあります。
それでも、不思議と読むのをやめるほどではありませんでした。
むしろ、その多少の粗さも含めて、昭和のミステリーらしい勢いのある作品だったと思います。
この記事では、斎藤栄『殺人の棋譜』のあらすじをネタバレなしで紹介したあと、実際に読んで印象に残ったところや、少し気になったところについて紹介します。
後半では物語の内容にも触れていますので、ネタバレを避けたい方はご注意ください。
『殺人の棋譜』とは?作品の基本情報
『殺人の棋譜』は、斎藤栄による長編ミステリーです。
1966年の第12回江戸川乱歩賞を受賞した作品で、受賞時には「王将に児あり」という題名でした。
物語の中心となるのは、将棋界の俊鋭・河辺真吾八段。
河辺は将棋最高位をかけ、不敗の名人との大勝負に挑もうとしています。
ところが、そんな人生を左右する対局と同じ時期に、愛娘が誘拐されてしまいます。
犯人の要求は身代金1000万円。
しかも、金を軽飛行機から投下するという大胆な方法を指定してきます。
「タイトル戦」と「娘の誘拐」。
まったく性質の違う二つの出来事を同時に進めていくところが、この作品の大きな特徴です。
『殺人の棋譜』と同じ江戸川乱歩賞受賞作を読み比べてみたい方には、東野圭吾のデビュー作『放課後』もおすすめです。

『殺人の棋譜』のあらすじ【ネタバレなし】
将棋界で頭角を現した河辺真吾八段は、最高位をかけた重要な対局を迎えていました。
棋士として考えれば、これ以上ないほど大切な時期です。
ところが、その最中に娘が誘拐されます。
犯人から要求された身代金は1000万円。
そして、その受け渡し方法として指示されたのが、軽飛行機から金を投下するという普通では考えにくい方法でした。
娘を助けたい。
しかし、河辺には棋士として人生をかけてきた対局があります。
当然、盤の前に座っていても、いつもの精神状態でいられるはずがありません。
一方、事件を追う側も犯人の行方を追っていきますが、事態は簡単には収まりません。
身代金を渡せば終わると思っていた事件は、さらに複雑な方向へ動き始めます。
ここから、
「娘は無事に戻ってくるのか」
「犯人はいったい誰なのか」
「河辺はこの状態で対局を続けられるのか」
という複数の疑問が重なり、物語が進んでいきます。
将棋について詳しい知識がなければ理解できない作品、というわけではありません。
むしろ中心にあるのは、誘拐事件をめぐるサスペンスです。
タイトルを見て「将棋が分からないから難しそう」と感じている人でも、そこはあまり心配しなくてよいと思います。
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『殺人の棋譜』を読んだ感想
将棋と誘拐事件が同時に進む設定はやはり面白い
本作で一番印象に残ったのは、やはり設定でした。
自分の娘が誘拐されている。
普通であれば、それだけで何も手につかなくなるでしょう。
ところが河辺は、棋士として最高位を争う対局にも向き合わなければなりません。
盤上では冷静に次の一手を考えなければならないのに、頭の中には娘のことがある。
この状況を想像すると、それだけでかなり苦しくなります。
私は本作を読みながら、単純に、
「こんな状態で将棋なんて指せるのだろうか」
と思いました。
将棋は長い時間集中力を維持しなければならない勝負です。
しかも、普段の対局ではありません。
棋士人生を左右するほどの大一番です。
そこに娘の誘拐を重ねたことで、盤上の勝負そのものとは違った緊迫感が生まれています。
思っていたよりも展開が早い
古いミステリーというと、
「話がゆっくり進むのではないか」
というイメージを持つ人もいるかもしれません。
しかし、『殺人の棋譜』は意外と展開が早い作品です。
誘拐事件が起き、身代金の受け渡しがあり、その後も新しい出来事が続いていきます。
一つの謎について長々と考えるというより、
「今度は何が起きるのだろう」
という気持ちでページを進めるタイプの作品です。
現在のミステリーのように伏線を細かく張り巡らせ、最後の数ページですべてをひっくり返すタイプとは少し違います。
それでも、先が気になる。
ここが本作の強さだと思いました。
多少強引なところがあっても、そのことをじっくり考える前に次の展開が始まります。
私はその勢いに乗って読んだほうが、この作品は楽しめると感じました。
昭和ミステリーならではの空気も楽しめる
当然ですが、1960年代に書かれた作品なので、現在とは社会も捜査方法も大きく違います。
スマートフォンはありません。
防犯カメラも、GPSも、インターネット検索もありません。
今であればすぐに調べられそうなことでも、人が実際に動き、聞き込みをして確かめていかなければなりません。
そのため、現代の感覚で読むと、
「もっと簡単に犯人を追えるのでは?」
と思ってしまう場面もあります。
ただ、それを単純に「古い」と切り捨てるのは少しもったいない気もしました。
便利な道具がないからこそ、犯人側にも逃げる余地があり、警察側にも分からないことがある。
そうした時代の違いまで含めて読むと、現在のミステリーとは別の面白さがあります。
昭和のミステリーを今読む楽しさについては、松本清張『点と線』でも強く感じました。
昭和ミステリー独特の捜査方法や時代背景を楽しみたい方は、松本清張『点と線』もおすすめです。

読んでいて少し気になったところ
警察の捜査にはもどかしさを感じる
面白かった一方で、気になった部分もあります。
その一つが、捜査の進み方です。
現在のミステリーを読み慣れていると、
「そこをもっと調べれば早く分かるのでは?」
と思ってしまうところがあります。
読んでいて、
「もう少ししっかり調べてほしい」
ともどかしく感じる場面もありました。
もちろん、書かれた時代が違うため、現在の警察小説と同じ基準で比べるのは公平ではありません。
それでも、このあたりは人によって評価が分かれるところだと思います。
細かな捜査のリアリティを重視する人より、多少の強引さがあっても物語が次々に動いていく作品が好きな人のほうが楽しみやすいでしょう。
「将棋ミステリー」を期待しすぎると少し違うかもしれない
もう一つ気になったのは、タイトルから受ける印象です。
『殺人の棋譜』という名前なので、
「棋譜の中に暗号が隠されているのでは?」
「将棋の一手が事件解決の鍵になるのでは?」
と期待する人もいると思います。
しかし、本作では将棋そのものが謎解きの中心にあるわけではありません。
将棋のタイトル戦は物語に強い緊張感を与えていますが、事件の謎を楽しむうえで高度な将棋知識が必要になる作品ではありません。
これは長所でもあります。
将棋を知らなくても読みやすいからです。
一方で、本格的な「将棋を使ったトリック」を期待すると、少し肩透かしを感じる可能性はあります。
私も読み進めながら、
「将棋と事件がもう少し直接結びついていたら、さらに面白かったかもしれない」
とは感じました。
ここからネタバレ|『殺人の棋譜』の事件と結末を振り返る
※ここからは物語の展開や結末に触れています。未読の方はご注意ください。
まだ作品を読んでいない方は、ここでいったん本編を読んでから戻ってくることをおすすめします。
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誘拐事件は単純な身代金事件では終わらない
序盤だけを見ると、物語は比較的分かりやすい誘拐事件に見えます。
娘を誘拐し、身代金を要求する犯人。
警察は犯人を追い、娘の救出を目指す。
しかし、事件はそのまま終わりません。
中盤以降、誘拐に関わった人物たちにも異変が起こり、事態はさらに複雑になっていきます。
ここで、
「単純な金目的の誘拐ではないのでは?」
という疑問が出てきます。
私はこのあたりから、序盤とは違う種類の面白さを感じました。
最初は「娘をどうやって救出するのか」が気になっていたのに、途中から、
「では、この事件の裏側で何が起きているのか」
へと興味が移っていきます。
一つの事件を追っていたつもりが、その背後に別の事情が見えてくる。
この展開が『殺人の棋譜』を単純な誘拐小説で終わらせていません。
誘拐犯側にも事件が起こることで、一気に分からなくなる
特に印象的なのは、追われる側だったはずの誘拐犯たちにも危険が及び始めるところです。
「犯人を見つければ事件は解決する」
と思っていた構図が崩れていきます。
誘拐をした人物と、その後に起こる出来事。
さらに、関係者たちの過去。
それぞれ別に見えていたものが、後半に入ると少しずつつながっていきます。
現在の本格ミステリーのように、
「こんな伏線がここに隠されていたのか」
と驚くタイプの作品とは少し違います。
それよりも、
「そういう事情が裏にあったのか」
と、人間関係の複雑さが見えてくるタイプの結末です。
多少強引だと感じる部分はありました。
しかし、最後まで犯人や事件の全体像を簡単には読ませないところは、江戸川乱歩賞受賞作らしい読み応えがありました。
読み終えたあとに残ったのは、爽快感より人間の執念だった
事件が解決すれば、普通はすっきりするものです。
ところが『殺人の棋譜』では、私はそれほど爽快な気持ちにはなりませんでした。
事件の裏側にあった人間関係や過去を知ると、
「ここまでしなければならなかったのだろうか」
という気持ちが残ります。
人間の恨みや執念は、一度こじれてしまうと簡単には消えません。
論理だけできれいに割り切れるものでもありません。
少し泥臭く、後味も決してきれいではない。
それでも、その割り切れなさが妙に記憶に残ります。
現在の洗練されたミステリーとは違いますが、これも昭和の作品を読む面白さなのだと思いました。
『殺人の棋譜』の良かったところ
『殺人の棋譜』を読んで特に良かったと感じたのは、次の3点です。
- 将棋のタイトル戦と誘拐事件を同時進行させる設定
- 次々に事態が変化するテンポの良さ
- 昭和ミステリーならではの泥臭い人間関係
特に、難しい将棋知識がなくても読める点は大きいと思います。
「棋譜」というタイトルだけを見ると少し敷居が高そうですが、実際にはかなりサスペンス寄りです。
将棋よりも、
「娘は助かるのか」
「犯人は誰なのか」
「なぜこんな事件が起こったのか」
という部分に興味を持って読めます。
また、誘拐事件を扱った作品が好きな方なら、西村京太郎『一千万人誘拐計画』と読み比べても面白いと思います。
誘拐という題材を使った別のミステリーを読みたい方には、西村京太郎『一千万人誘拐計画』もあります。タイトルどおり、こちらもかなり大胆な設定の作品です。

『殺人の棋譜』はこんな人におすすめ
『殺人の棋譜』は、特に次のような人におすすめです。
- 昭和のミステリーを読んでみたい人
- 誘拐事件を扱ったサスペンスが好きな人
- ゆっくりした作品より展開の早い作品が好きな人
- 将棋を題材にした小説に興味がある人
- 江戸川乱歩賞受賞作を読みたい人
- 現代とは違う捜査方法や時代背景も楽しめる人
反対に、
- 将棋そのものを使った緻密なトリックを期待している
- 現代的でリアルな警察捜査を重視する
- すべての伏線がきれいに回収される作品が好き
という人には、少し合わない可能性があります。
私は、本作を「完璧に作り込まれた本格ミステリー」として読むより、
多少の粗さも含めて、勢いのある昭和サスペンスを楽しむ作品
として読んだほうが面白いと思います。
まとめ|古さも含めて楽しみたい昭和の将棋ミステリー
『殺人の棋譜』は、将棋界の大一番と娘の誘拐事件を同時に進めるという、非常に大胆な設定のミステリーです。
読んでいて、
「今ならこういう捜査にはならないだろうな」
と思うところもありました。
事件の進め方にも、少し強引さを感じます。
それでも最後まで読めたのは、やはり物語に勢いがあるからでしょう。
娘はどうなるのか。
犯人は誰なのか。
事件の裏には何があるのか。
一つ分かったと思ったら、また別の出来事が起きる。
その繰り返しで、気づけば最後まで読み進めていました。
また、「将棋ミステリー」という言葉から想像するほど将棋の知識は必要ありません。
そのため、将棋をほとんど知らなくても問題なく楽しめる作品だと思います。
現在のミステリーと比べれば、古さを感じる部分は確かにあります。
しかし、その古さを欠点だけで終わらせず、
「この時代だからこそ成立した事件なんだな」
と楽しめる人には、一度読んでみる価値があります。
昭和のミステリーが好きな人はもちろん、これまで古い推理小説をあまり読んだことがない人にも手に取ってほしい一冊です。
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