
「完全犯罪」を描いたミステリーは数多くあります。
緻密な計画を立て、アリバイを作り、警察の目をかいくぐる。犯人がどんな方法で犯罪を成功させるのか――そこに面白さを感じる作品も少なくありません。
東野圭吾『ブルータスの心臓』も、読み始めたときはそんな小説だと思っていました。
ところが、途中から少し様子が変わってきます。
「この計画、本当に大丈夫なのか?」
ではなく、
「そもそも、この中で誰を信用していいんだ?」
という話になってくるのです。
登場人物たちは、それぞれが自分の欲望や将来のために動いています。誰かを心から信頼しているわけでもない。それなのに、彼らは「完全犯罪」という危うい計画でつながってしまう。
読んでいて面白いのですが、どこか居心地が悪い。
そして読み終えてみると、トリックそのものよりも「人間って怖いな」という感覚のほうが残りました。
この記事では、前半をネタバレなしの感想、後半を犯人・結末まで含めたネタバレありの考察として紹介します。
東野圭吾『ブルータスの心臓』とは?
主人公の末永拓也は、産業機器メーカーで最新ロボットの研究に携わるエンジニアです。
仕事もでき、将来への野心もある拓也は、勤務先の創業者令嬢・星子との結婚を目論んでいました。
ところが、そんな拓也の前に大きな問題が現れます。
関係を持っていた康子から、妊娠を告げられたのです。
しかも康子と関係を持っていた男性は、拓也一人ではありませんでした。
そんな状況の中、星子の兄・直樹から康子を殺害する計画を持ちかけられます。
ここから始まるのが、本作の大きな見せ場となる「完全犯罪殺人リレー」です。

【ネタバレなし】『ブルータスの心臓』のあらすじ
拓也、直樹、そして橋本。
康子と関係を持っていた三人は、それぞれにとって邪魔な存在となった康子を殺害するため、奇妙な計画を立てます。
その方法が、死体を大阪から名古屋、名古屋から東京へとリレーするというもの。
一人の人間が殺害から死体遺棄まですべてを行えば、当然、その人物に疑いが向きます。
しかし三人で役割を分担し、それぞれが別の場所にいたことを証明できれば、強固なアリバイを作れる。
理屈だけを聞くと、確かによくできています。
私はこの計画を読んだとき、「なるほど」と感心する一方で、最初から嫌な予感もありました。
なぜなら、三人には信頼関係らしい信頼関係がほとんどないからです。
そんな人間たちが、殺人という絶対に失敗できない秘密を共有する。
考えてみれば、これほど危うい計画もありません。
『ブルータスの心臓』を読んで面白かった3つのポイント
完全犯罪より「誰が裏切るのか」が気になってくる
序盤では、どうしても殺人リレーのトリックに目が向きます。
ところが読み進めるにつれて、私が気になったのはトリックではなく人間関係でした。
「この人、本当に計画どおり動くのか?」
「誰かが一人だけ助かろうとしているのでは?」
そんな疑いが次々と浮かんできます。
完全犯罪というのは、本来なら計算や論理によって作られるものです。
しかし、それを実行するのは機械ではなく人間。
人間には欲があります。恐怖もあります。嫉妬もあります。
そして何より、自分だけは助かりたいと思ってしまう。
本作を読んでいると、完全犯罪を壊す最大の原因は警察でも偶然でもなく、結局は「人間なのではないか」と思えてきます。
主人公・拓也には最後まであまり共感できなかった
正直に書くと、私は拓也を応援しながら読んでいたわけではありません。
むしろ、
「そこまでして出世したいのか」
「康子を殺す以外に方法はなかったのか」
と思う場面のほうが多くありました。
星子と結婚して将来の地位を手に入れたい。
そのためには自分にとって邪魔な人間を排除する。
かなり身勝手です。
普通なら、主人公に感情移入できない小説は読むのが苦しくなりそうなものです。
ところが『ブルータスの心臓』は、不思議とページをめくってしまいます。
拓也に幸せになってほしいからではありません。
「この男は最後にどうなるんだろう」
という、少し冷めた興味で読み続けてしまうのです。
この感覚は、個人的にはかなり面白い読書体験でした。
主人公を好きになれなくても、物語には引き込まれる。
東野圭吾作品の怖さでもあると思います。
東野圭吾の初期作品をもう一冊読むなら~

古さを感じる部分もあるが、それが逆に面白い
『ブルータスの心臓』を今読むと、時代を感じる部分があります。
特に印象的だったのが、血液型を使って胎児の父親を推測する場面です。
現代なら、
「DNA鑑定すればいいのでは?」
と考えてしまいます。
防犯カメラや位置情報などについても、現在と当時では環境が大きく違います。
そのため、今の感覚だけで読むと「こんな計画が成立するのかな」と思う部分はあります。
ただ、私はそれを欠点とは感じませんでした。
むしろ、
「今では成立しにくい犯罪だからこそ読めるミステリー」
として楽しめました。
スマートフォンも位置情報も防犯カメラも当たり前になった現在では、同じトリックを書くのはかなり難しいでしょう。
そう考えると、時代そのものも作品の一部なのだと思います。
※ここから先は犯人・結末を含むネタバレがあります
未読の方はご注意ください。
作品をこれから読む予定の方は、ここで一度ページを閉じることをおすすめします。

完全犯罪計画が崩れる――運ばれてきた死体が違う
殺人リレーは実行に移されます。
ところが拓也が受け取った死体を確認すると、そこにいたのは殺害するはずだった康子ではありません。
死んでいたのは、計画を考えた直樹でした。
私はここが、本作で最初に大きく引っかかった場面でした。
「えっ、どういうこと?」
と、一度頭の中で人物関係を整理したくなります。
ここまでは、
「三人がどうやって康子を殺すのか」
という物語でした。
ところが、この瞬間から、
「三人とは別の誰かが、この計画に入り込んでいるのではないか」
というミステリーに変わります。
そして怖いのは、計画を知っている人物が他にもいるとすれば、自分も殺されるかもしれないということです。
完全犯罪を実行する側だった拓也が、今度は追われる側になる。
この反転から、一気に物語が面白くなります。
『ブルータスの心臓』の犯人と事件の真相
直樹の死に続いて、橋本も命を落とします。
拓也にも危険が迫り、殺人リレーに関わった人物を一人ずつ消そうとしている何者かの存在が浮かび上がってきます。
その人物が、同じ会社で働く酒井悟郎でした。
悟郎は過去の殺人を直樹に知られており、それを弱みとして利用されていました。
直樹は悟郎を利用して康子を殺させ、自分自身は安全な場所にいながら完全なアリバイを作ろうとしていたのです。
ところが悟郎は、逆に直樹を殺害。
さらに計画を知る橋本や拓也まで消そうとします。
ここまで来ると、「完全犯罪」という言葉が少し滑稽にさえ見えてきます。
全員が自分だけは賢いと思っている。
自分だけは他人を利用できると思っている。
でも実際には、それぞれが別の誰かを利用し、裏切ろうとしている。
だから計画はどんどん別の方向へ転がっていく。
私はこのあたりを読んでいて、トリック以上に人間の欲の連鎖のほうが怖くなりました。
康子もまた、ただの被害者ではなかった
物語が進むと、康子についても意外な事実が明らかになります。
康子は拓也たちだけでなく、星子の父・敏樹とも関係を持っていました。
誰の子どもなのかという問題すら、自分が有利な立場になるために利用していたことが見えてきます。
もちろん、だから殺されていいという話ではありません。
ただ、康子も一方的に追い詰められた弱い人物としては描かれていない。
この作品、本当に「善人」が少ないのです。
誰か一人くらい、
「この人だけは幸せになってほしい」
と思わせてくれてもいいのに、と読みながら感じました。
しかし、その救いのなさが『ブルータスの心臓』らしさでもあるのでしょう。
そして拓也自身も、最終的に康子を殺害してしまいます。
ここまで来ると、拓也も事件に巻き込まれただけの被害者ではありません。
完全に一線を越えています。
『ブルータスの心臓』の結末――拓也を待っていた皮肉
悟郎が一連の事件に関わっていたことを突き止めた拓也は、彼と対峙します。
そこで最後に登場するのが、拓也が開発に関わってきたロボット「ブルータス」です。
拓也は人間を信用しません。
出世を望み、他人を利用し、自分の将来を最優先する。
そんな彼が、ある意味もっとも信頼していた存在が機械でした。
ところが最後、そのブルータスが悟郎によって操作され、拓也は命を落とします。
読み終えた瞬間、
「そういう終わり方なのか……」
と少し呆然としました。
決して爽快なラストではありません。
悪事が暴かれて、名探偵がすべてを説明して、事件がきれいに解決するわけでもない。
むしろ最後まで人間の欲望と裏切りが残ります。
ただ、時間が経ってから考えると、この終わり方以外は考えにくい気もしてきました。
拓也は人間を利用し続けました。
そして最後は、自分がもっとも信頼していた「機械」を、人間に利用されることで命を落とす。
かなり皮肉な結末です。
なぜタイトルは『ブルータスの心臓』なのか
読み終えてから、改めて気になるのがタイトルです。
「ブルータス」という名前を聞いて、まず思い浮かぶのは「裏切り」でしょう。
本作も、まさに裏切りの連続です。
直樹は悟郎を利用しようとする。
悟郎は直樹を殺す。
殺人計画に参加した人間たちは互いを信用できない。
そして最後には、拓也が信頼していたロボット「ブルータス」によって拓也自身が殺されます。
ただし、ここで考えたいのが一つあります。
ブルータスというロボット自身に、拓也を裏切ろうという意思があったわけではありません。
ロボットは命令されたとおり動いただけです。
実際にブルータスを動かしていたのは悟郎でした。
そう考えると、「ブルータスの心臓」という言葉が急に面白く見えてきます。
機械に心はない。
では、その機械を動かしている「心」はどこにあるのか。
私は、このタイトルにはそんな問いも込められているように感じました。
ブルータスを動かしていたのは人間です。
そして人間の心には、嫉妬、欲望、恐怖、憎しみがある。
つまり、本当に怖かったのはブルータスではありません。
ブルータスを動かす人間の心だったのではないか。
読み終えた今、私はそんなふうにタイトルを受け取っています。
ロボットと人間、本当に怖いのはどちらなのか
本作にはロボット技術が重要なモチーフとして登場します。
最初に読んだときは、
「主人公をロボットエンジニアにした意味は、そこまで大きいのかな?」
とも感じました。
しかし最後まで読むと、見方が変わりました。
ロボットはプログラムされたとおりに動きます。
少なくとも、自分の出世のために嘘をついたり、嫉妬したり、誰かを裏切ったりはしません。
一方、この作品の人間たちは違います。
計画どおりに動かない。
秘密を持つ。
嘘をつく。
そして、自分を守るためなら仲間さえ裏切る。
序盤には機械の危険性を感じさせる部分があるのに、読み終えたあと私が怖いと思ったのは、完全に人間のほうでした。
そこが、この作品の面白いところです。
弓絵や星子の存在が妙に心に残った
『ブルータスの心臓』には、冷たい人間関係が多く描かれます。
だからこそ、中森弓絵のような人物が出てくると少しほっとします。
欲望と殺意ばかりの物語の中に、普通の人間らしい感情が入ってくるからでしょう。
そして個人的には、星子のことも気になりました。
拓也にとって星子との結婚は、「好きな女性と結婚したい」という単純な話ではありません。
そこには出世や地位への欲があります。
そう考えると、星子自身もまた拓也の野心の中で一つの「目的」のように扱われています。
読み終わったあとに振り返ると、この作品では人と人との関係そのものが、どこか取引のようです。
「この人が好きだから一緒にいたい」
という単純な関係がほとんどない。
だから読後に少し寂しさが残るのかもしれません。
『ブルータスの心臓』はこんな人におすすめ
本作は、東野圭吾作品の中でも特に「人間の欲」を楽しむタイプのサスペンスだと思います。
完全犯罪のトリックが好きな人はもちろん、
- 誰が誰を裏切るのか分からない作品が好き
- 主人公が善人ではない小説も楽しめる
- 少し後味の悪いミステリーが好き
- 東野圭吾の初期作品を読んでみたい
- トリックだけでなく登場人物の心理も楽しみたい
という人には特に向いています。
反対に、正義感の強い主人公や、最後にすべてがきれいに解決する爽快なミステリーを求めている人には、少し合わないかもしれません。
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【書評まとめ】派手ではないのに妙に忘れにくい一冊
『ブルータスの心臓』を読み終えて、
「東野圭吾作品の中で一番好きだ」
と思ったわけではありません。
主人公にもあまり共感できませんでしたし、読後感も決して気持ちのいいものではありません。
それなのに、妙に記憶に残ります。
死体をリレーするという奇妙な完全犯罪。
途中から崩れていく計画。
誰が誰を利用しているのか分からなくなる人間関係。
そして最後に待っている「ブルータス」。
考えてみれば、完全犯罪というものは完璧な人間がいなければ成立しません。
しかし、完璧な人間など存在しない。
欲もあれば、恐怖もある。
自分だけは助かりたいと思う。
だからこそ計画は崩れていきます。
読み始めたときは「完全犯罪の小説」だと思っていました。
でも読み終えたあとに残ったのは、トリックよりも、
「機械より、人間の心のほうがよほど複雑で怖い」
という感覚でした。
タイトルの『ブルータスの心臓』まで含めて考えると、なかなか皮肉の効いた作品です。
少し古さはあります。
けれど、その古さも含めて「この時代だからこそ成立した東野圭吾ミステリー」として、今読んでも十分楽しめる一冊だと思います。



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